2011年3月21日月曜日
雲仙普賢岳
1992(平成4)年9月28日・・・
私は 小雨降る、日暮れ時の 島原へとやって来ました。
その日は、予約していた 島原ユースホステル に宿泊。
その日の客は私一人・・・
どのYHでもそうであるように、受付を済ませると
シーツを渡され、部屋に案内されます。
なんだ!?随分砂っぽい部屋だなぁ・・・。
掃除が行届いていないのだろうか?
それが、噴火を続けている、雲仙普賢岳 からの降灰であることは
瞬時に理解できましたが、それとしても寝心地は悪そうです。
まぁ、旅疲れてもいる事だし、すぐ寝るで良しとしますか・・・。
この旅で、私は島原に来ないという選択もできました。
しかし・・・今、普段の生活を取り戻しつつある島原を歩くことも また、経験。
深夜・・・
ウ~~~~~ という長いサイレンで、起こされました。
一時的に、家に戻っていた 避難地区の住民に対して
避難指示がなされたのです。
この小雨で 土石流の危険が高まったためだと、翌朝 聞きました。
私は、この時 布団に入ったまま、あれこれと考えを巡らした事を
生涯忘れることはできないでしょう。様々な想いが駆け巡りました。
翌朝・・・ 私は 宿を出て 島原城 へと向かいました。
ニュースでは見ていましたが、自衛隊の戦車、装甲車、ジープ が
何台も待機して、普賢岳の監視を続けています。
いざ、となれば・・・ 下の写真の 装甲車 は確か
土石流迫る中、住民の避難に使われていたものと同型。
74式戦車 は 備えている赤外線スコープで、火口の監視に
当たっていたように思います。
ものものしさが漂うものの・・・
落ち着いた状態を維持していた事もあって 自衛隊の方の、2人、3人 に
話を伺っています。 その内容は忘れましたが
とても丁寧に説明してくれたことと
「自分たちが、島原を守るんだ・・・。」 という気持ちが強く伺えて
随分と頼もしく感じたことが忘れられません。
天守閣にも登りましたが・・・
ちょうど、最上階から普賢岳を眺めているときに風が変わったのか
あっという間に噴煙に包まれてしまいました。
口を開けていた覚えもないのに、口の中はザラザラになりました。
体全体が砂っぽい。
粒子が細かいんだ・・・
こりゃぁ、少々の掃除でこの砂っぽさが取り除ける訳がないな・・・。
その後・・・ 島原鉄道 で火砕流に飲み込まれた地区を通過・・・。
「話に聴く、写真に見る、原爆後の広島そのままの風景だ・・・・・。」
異様なほど、命を感じません。無が支配する風景でした。
列車の中から、静かに手を合わせました。
この時の事は・・・。
深く印象に残っています。
今、テレビで 東日本大震災 のニュースが流れています。
残念ながら、普段通りの暮らしをしている私達が
その痛みを分かつことは出来ませんが
こういう経験を一度でも、現実として経験して
考え、行動しておくことは、必ず後に生きていくうえでの糧になると思います。
人の痛みを感じます。
普段からの備えが現実味をおびてくると思います。
自分で経験しなくとも、自衛隊、消防、警察の方が身近に
いらっしゃれば、話を伺うことで補うこともできます。
広島の方でもそうですが、悲しい思い出を話す事は、とても辛いこと・・・。
それでも、後の経験になるならと、
もしもお話してくださる方が身近にいらしたなら
ぜひ、伺ってみておいて欲しいと思います。
今回の場合・・・。
逃げるチャンスすら無かった、一瞬で全てを飲み込まれた方が大勢います。
さぞ、怖かったでしょうし、無念だった事だろうと思います。
私達も もしも・・・備えを万全にしていたとしても
結果、役に立たないかも知れません。
しかし・・・ 余程の事が無い限り、慌てて買いに走るということは
しなくても済むのではないでしょうか。
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