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2011年10月22日土曜日

瀬戸内点景 戦艦長門、軍艦旗の帰還




1945(昭和20)年8月の終戦時・・・


その時まで、唯一 海上に姿を見せていた日本の「戦艦」が 長門 です。



昭和19年11月に日本に帰投して以降・・・



修理するための機械


搭載する弾薬、燃料、兵員、食料  護衛するための 艦船、戦闘機



もはや・・



何一つとっても、満足に補給出来るものはなく、


その力を発揮させることが ままならなくなってしまった長門は、


横須賀港に繋がれ、浮き砲台として、沿岸の防衛に使われていました。




戦後・・・



アメリカ軍に接収され、

ビキニ環礁に回航後、昭和21年7月25日水爆実験の標的となって

その生涯を終えるのですが・・・


接収された時に 掲げられていたのが、写真の 日本海軍の軍艦旗 です。


そして それは、同時に・・・


日本の海軍において、一つの時代の象徴ともなった 「戦艦 」という艦種の歴史


その最後の瞬間を見届けることになった軍艦旗でもありました。




接収時の、アメリカ海軍の艦長の娘さんが、その旗を所有していて、

日本の方に売りたい、とインターネットオークションに

出品されていた頃から、気になっていたといいます・・・



その旗が・・・ 自身が司会を務める「なんでも鑑定団」に出品された時、

高額の鑑定価格であるにも関わらず


自費で買い取って、呉市の大和ミュージアムへ寄贈する。


・・・と、その場で述べられたことが印象に残っています。


その回は、私もたまたま観ていたのですが・・・


その価値を理解される 石坂 氏ならでは!・・・といった決断で、

氏の意気に驚かされたものです!



フネにとって、軍艦旗は特別な存在とされていますから、


その旗と共に、戦いに出ていった人達の無念を思うとき・・・



ようやっと 戻るべきところに戻ってきたのだなぁ~


・・・という感慨を覚えます。






2010年4月29日木曜日

レトロフュチャー



    SF映画にでも出てきそうな

    レトロフュチャーな蒸気機関車…


     大正、昭和初期に流行した 鉄道 の 流線型ブーム。
       実用的な効果のほどはともかく、独特のモダンさがあり
      今でも、根強いファンを持っています。

    パネル を 眺めながら おっ…! と思った


    この機関車 パシナ号 も

    川重で生産されたもの。


    ちょうど 自社の生産 通算1500両目となったことを記念して
    文字を入れて 撮影されていますが その姿で走ったということ
    では無いようです。

    
    日本の資本と技術で 運営された

    南満州鉄道 の看板列車として

    大連 - 新京 間を 8時間30分 (後に ハルピン まで運転。)

    最高速度130Kmでの運転は

    国内と線路の幅が違うとはいえ

    日本人が設計、製造した蒸気機関車の最高速度となっています。


    当時としては珍しい 冷暖房を完備した客車で運転された あじあ号。

    試運転列車に招待された アメリカの報道関係者は

    世界一の列車だ… と伝えたとされています。


    明治政府の決断のなかでも 今に失敗とされる

    日本国内の線路幅1067mm は

    海外標準の1435mmと比べて狭く、高速運転に不利なことが

    早くから分かっていました。


    一時は、標準軌 への改軌が真剣に検討され、

    その時の 技術検討 は 当地にて生かされています。
    

    また、この機関車は…

    いずれ 東海道・山陽本線 の容量は限界に達するとして計画、
    
    一部で 土地の買収が開始されていた
    
    戦前の 東京-下関 間 の 弾丸列車計画 の
    
    牽引機関車のベースモデルとも見られていたようで

    そのまま、全長を伸ばして 車輪を増やしたかのような
 
    機関車の基本計画図 が残されていることは は

    ファンの間では有名な話しです。



    やがて、戰局の悪化に伴なって


    あじあ号 は運転を終了。


    弾丸列車計画 も中止となってしまいましたが。


    買収を終え、すでに掘削を開始していた 新丹那トンネル は

    後に 東海道新幹線 用として使用。

    買収されたが進んでいた土地の一部も 活用されています。


    また… 敗戦により 失業した 軍の技術者を

    技術流失 ・ 失業対策 のために 鉄道総合研究所 で引受け

    電気 ・ 航空 ・ 通信 ・ 機械 などの技術者が集ったなかで

    航空技術を応用した高速電車 という夢が語られることとなり
    

    当時… 鉄軌道では 不可能とされていた 200km 運転を

    実現させていくことになります。


    世界中の多くの国が採用している 1435mm幅 ですが

    その多くの国が、アメリカ、ヨーロッパ、カナダ製車両を輸入しています。


    もしも日本が標準軌だったら…

    敗戦により、アメリカの統治下に置かれた時に輸入され

    それらの機関車を使うことになったのではないでしょうか!?

    歴史の因果を感じます。


    パシナ機関車 は…

    その後… 長く 所在が分かりませんでしたが
    
    1980(昭和55年)夏、中国の蘇家屯機関区 にて

    流線型のカバーが外されている姿で、日本人が発見。


    その後、中国人の手により 往時の姿への復元がされ

    現在は 瀋陽蒸気機関車博物館 で保存、展示されています。