2011年5月22日日曜日

通潤橋ものがたり


   いよいよ通水となる、その日・・・。


   工事推進の総責任者である 矢部 の 総庄屋 布田  保之助 は、
   紋服の懐に短刀を偲ばせて、橋の中央に正座、その開通に臨んだと言われています。

   もしも・・・通水によって橋が崩壊したなら、橋と運命を共にする覚悟でした。

   いぇ 仮に・・・通水に失敗すれば、修復して「橋」としては活用できても、
   この架橋の要ともなる・・・複雑な構造を持つ「水路」として復旧を行うのであれば、
   一度、全てを解体しなければ不可能ですから、
   通水の失敗と共に自刃する覚悟であったものと思われます。


   そもそも・・・
   
   なぜ、彼は そこまでの覚悟を秘め、開通へと臨む気持ちに
   なったのでしょう!?

   周囲の水は豊富であるにも関わらず、谷が深く、長きに渡り
   不毛の地であり続けた「矢部」。
   
   総庄屋として、農民の困窮に心を砕き続ける日々・・・。

   水路橋を架けて、水を引くことが出来れば田畑は潤い、皆の暮らしぶりは良くなる。

   すでに・・・ 十代の頃から、そのアイデアを温めていたと言われています。


   年月は流れ・・・

   彼が、五十代になった頃・・
   それまでには例がないほどの大きな石橋の建設にも、目途が立つようになり・・・
   いよいよ念願であった、水路橋の建設向けて、着手することとなるのです。


にほんブログ村 広島ブログ

0 件のコメント: