2014年1月22日水曜日

広島城は名城か!?




広島城は名城なのでしょうか!?



かの 豊臣秀吉 が


朝鮮出兵のために九州に向かう際に、広島に立ち寄った際・・・


実際に、自らの目で眺めながら


さすが! 毛利氏に相応しい!!と褒めたとされているのですが


一方で・・・


水攻めにあったら ひとたまりもない と語った・・・とされる説もあるんです。



巧みな水攻めの戦で戦果を上げたことのある、秀吉だけに


弱いと語ったとされる説にも、真実味が感じられない訳ではないのですが



実際のところは、どうなのでしょうか!?



広島城攻略のために、攻め込んだとします・・・



街に火を放って後・・・


( 守る側を心理的に追い詰めるための、当時の常套手段です。)



川を渡って、本丸に攻めこもうとした場合


広島城の場合、中洲が大きいために 大勢の兵の囲い込みが行いやすく


長い期間に渡って、戦力を維持することが可能でしょう。



牛田付近の山を崩して、太田川を氾濫させる・・・という方法もありますが


当時の土木技術で・・・


たとえ 今の技術もってしても、相当の労力が必要となるでしょう。



海から攻めこむ・・・としても


水軍を傘下に収めていた、毛利勢に対抗するのは難しく


その何倍かの兵力が必要になったものと思われます。


( 通常・・・上陸作戦は 守る側に対して3倍の戦力が必要とされます。 )



裏切りなど、内輪から崩された場合が一番危険ですが・・・


これは 広島城に限った話ではなく

だからこそ、元就は、自ら 亡き後を心配して 家中の結束を訴えたのでしょう。 




攻撃に対し、攻めにくい城であったかどうかは


広島城を前にしての攻防戦が行われたことが無いだけに


今となっては、知る由もありません。



これは、広島城に限った話ではなく

天下の名城とされている 姫路城 も、一度も戦火を交えることなく

軍事的な役割を終えたために

構造上はともかくとして、実際に戦闘となったら!?といえば?なのです。


しかしながら・・・


広島城は・・・


それまで 山 や 石山 で築かれていた 城 を 平地に移すことで

都市の発展に重きを置き、後の広島市周辺の発展の基礎を築いたこと。


姫路城は・・・


後の世に 日本のお城の 城郭建築の象徴として


また、第二次世界大戦による姫路空襲時には

奇跡的に焼け残ることで、市民に大いに希望を与えた・・・という点において


やはり 名城 と言えるのでしょう。


・・・と同時に、その建築物が 実際に、何に役に立つのか

時が過ぎてみないと分からない もの・・・と思わされます。




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