2011年10月23日日曜日

大島点景 その4 2011年の目で眺める陸奥記念館



戦艦 大和 の生涯を語るとき


 すでに大艦巨砲の時代は過ぎ去っており・・・


・・・という件が加えられることが多いのですが、
大和 といわず、すでに 長門、陸奥 の時代には過去のものとなっていて、

実際の戦闘では・・・ 雲霞のごとく群がる、敵航空機の攻撃に対して為す術もなく
ただ、ただ被害を大きくしていくのみでした。

日本軍が、もっと航空機を保有していなたら
万全な防空のもとに、もっと活躍する機会もあったのかも知れませんが・・・


実際・・・

連合艦隊の誇った 大和、武蔵、長門、陸奥 の主力4隻の戦績を見ても
敵方に与えた直接の損害は、4隻の人的、物的損害の総量に対して
僅かなものとなっています。

そのうち・・・ 武蔵、陸奥 に至っては、その巨砲を
敵艦船に対して一度も打ち込むことなく、海中に没しています。




大島沖で、爆沈事故を起こした 戦艦 陸奥 は

戦後・・・ 引き揚げ作業が行われ


船体のかなりの部分を回収。


その一部は、沈没地点が望める場所に 陸奥記念館 として
資料、遺品の収集、展示が行われています。




資源がなく、それを大陸へと求めざるを得なかった日本と。

欧米に対し工業力で勝ることができないとなれば、

一隻の力を最大限まで・・・ という大艦巨砲主義の
の考えに至っても不思議ではありませんし、

外側から、それを聴くことになる私達は、

どうしても、長いものというのか、勝ち馬というのか
ともかく・・・ そういった、時の熱に流されやすい。

今年・・・

安全神話の崩壊・・・ なんて連呼されているのを聞く時

大艦巨砲主義は今も健在!?・・・という気がしています。


写真は 陸奥記念館と、そこに置かれている
浮揚された陸奥の船首部分、副砲の14cm砲 です。


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