戦艦 大和 の生涯を語るとき
すでに大艦巨砲の時代は過ぎ去っており・・・
・・・という件が加えられることが多いのですが、
大和 といわず、すでに 長門、陸奥 の時代には過去のものとなっていて、
実際の戦闘では・・・ 雲霞のごとく群がる、敵航空機の攻撃に対して為す術もなく
ただ、ただ被害を大きくしていくのみでした。
日本軍が、もっと航空機を保有していなたら
万全な防空のもとに、もっと活躍する機会もあったのかも知れませんが・・・
実際・・・
連合艦隊の誇った 大和、武蔵、長門、陸奥 の主力4隻の戦績を見ても
敵方に与えた直接の損害は、4隻の人的、物的損害の総量に対して
僅かなものとなっています。
そのうち・・・ 武蔵、陸奥 に至っては、その巨砲を
敵艦船に対して一度も打ち込むことなく、海中に没しています。
大島沖で、爆沈事故を起こした 戦艦 陸奥 は
戦後・・・ 引き揚げ作業が行われ
船体のかなりの部分を回収。
その一部は、沈没地点が望める場所に 陸奥記念館 として
資料、遺品の収集、展示が行われています。
資源がなく、それを大陸へと求めざるを得なかった日本と。
欧米に対し工業力で勝ることができないとなれば、
一隻の力を最大限まで・・・ という大艦巨砲主義の
の考えに至っても不思議ではありませんし、
外側から、それを聴くことになる私達は、
どうしても、長いものというのか、勝ち馬というのか
ともかく・・・ そういった、時の熱に流されやすい。
今年・・・
安全神話の崩壊・・・ なんて連呼されているのを聞く時
大艦巨砲主義は今も健在!?・・・という気がしています。
写真は 陸奥記念館と、そこに置かれている
浮揚された陸奥の船首部分、副砲の14cm砲 です。
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