広島城は名城なのでしょうか!?
かの 豊臣秀吉 が
朝鮮出兵のために九州に向かう際に、広島に立ち寄った際・・・
実際に、自らの目で眺めながら
さすが! 毛利氏に相応しい!!と褒めたとされているのですが
一方で・・・
水攻めにあったら ひとたまりもない と語った・・・とされる説もあるんです。
巧みな水攻めの戦で戦果を上げたことのある、秀吉だけに
弱いと語ったとされる説にも、真実味が感じられない訳ではないのですが
実際のところは、どうなのでしょうか!?
広島城攻略のために、攻め込んだとします・・・
街に火を放って後・・・
( 守る側を心理的に追い詰めるための、当時の常套手段です。)
川を渡って、本丸に攻めこもうとした場合
広島城の場合、中洲が大きいために 大勢の兵の囲い込みが行いやすく
長い期間に渡って、戦力を維持することが可能でしょう。
牛田付近の山を崩して、太田川を氾濫させる・・・という方法もありますが
当時の土木技術で・・・
たとえ 今の技術もってしても、相当の労力が必要となるでしょう。
海から攻めこむ・・・としても
水軍を傘下に収めていた、毛利勢に対抗するのは難しく
その何倍かの兵力が必要になったものと思われます。
( 通常・・・上陸作戦は 守る側に対して3倍の戦力が必要とされます。 )
裏切りなど、内輪から崩された場合が一番危険ですが・・・
これは 広島城に限った話ではなく
だからこそ、元就は、自ら 亡き後を心配して 家中の結束を訴えたのでしょう。
攻撃に対し、攻めにくい城であったかどうかは
広島城を前にしての攻防戦が行われたことが無いだけに
今となっては、知る由もありません。
これは、広島城に限った話ではなく
天下の名城とされている 姫路城 も、一度も戦火を交えることなく
軍事的な役割を終えたために
構造上はともかくとして、実際に戦闘となったら!?といえば?なのです。
しかしながら・・・
広島城は・・・
それまで 山 や 石山 で築かれていた 城 を 平地に移すことで
都市の発展に重きを置き、後の広島市周辺の発展の基礎を築いたこと。
姫路城は・・・
後の世に 日本のお城の 城郭建築の象徴として
また、第二次世界大戦による姫路空襲時には
奇跡的に焼け残ることで、市民に大いに希望を与えた・・・という点において
やはり 名城 と言えるのでしょう。
・・・と同時に、その建築物が 実際に、何に役に立つのか
時が過ぎてみないと分からない もの・・・と思わされます。