弘治元(1555)年 初夏~夏にかけて
陶 晴堅 は 配下
少数の兵力にて 厳島 宮尾城 を攻めます。
続いて、現在の 黄金山 である 仁保島 を 攻めますが
いずれも、毛利 の反撃に遭い敗退しています。
大内 義隆 を追討した身の内
統率力は、どの程度だったのでしょうか?
家臣の信頼が厚かったとされますが…
自らの 逆臣 の汚名 を晴らすべくの 焦りもあったことでしょう。
逆に 毛利 は 次々と 安芸諸国 を手中に収めてきており
時の勢いを表しているように思います。
同じ年の 9月30日 夜 地御前の浜
闇の中、わずかな光だけを頼りに
厳島渡海作戦 は決行されました。
そして、陶 軍 からは 陰となる 包ヶ浦 に上陸。
元就 は 船を 一隻残らず、戻らせました。
この時、全軍が背水の戦いであることを悟ります。
10月1日、早朝
博奕尾の峰 に登っていた、毛利本隊 より
鬨の声 が発せられます。
率いるは 元就、隆元
先陣を 元春 が務めます。
厳島の正面からは 隆景 率いる 小早川 軍 が
正面から堂々と 九州からの援軍 と偽り上陸を果たします。
その後方では 水軍 が 遊撃 海上封鎖を狙っています。
宮尾城 は 陥落寸前…
対岸の 毛利 は この嵐の中では身動き取れない…
そんな風に考えていたことでしょう。
不意打ちのうえに、挟撃を受ける
陶 軍 は やがて混乱に陥ります。
船を操り、逃げようとする者には
自在に動き回る、水軍 が攻撃を仕掛けていきます。
午後2時頃…
次第に追われながら
やがて逃げるべき船も無いことを知った
陶 晴堅 自刃 享年 35歳
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも
この有様の 定まれる身に
この辞世の句
後年の人による 偽作の可能性があるそうですが…
それも歴史でしょう…
言い伝え、伝承には 何らかの理由があるものです。
自らも 歴史の i f について考えてみる…
何より…
私達が 今知っていることで全てではないのですから…
私達が歴史上の人物に抱くイメージの元になるもの
偉人風に構えている絵が その人…という訳でも無いでしょう。
笑い、喜び、怒り、嘆き、悲しむ…
そんな、私達と変わらない姿を 思い浮かべる重ねるとき
新しい発見があるのではないか?
私は、そう思っています。
写真は 大鳥居を前に 海で遊ぶ子供さん
兄弟かな? 何を探しているの?
カープ帽子が広島らしく、風景に溶け込んでいます。
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