2009年11月17日火曜日
それでも街は生きる…
岡山城 の縄張りを見た時…
攻撃された時、不利じゃないかな!?…という疑問が沸きます。
城を囲むように流れる旭川は、天然の 堀 になっているとはいえ
古地図の掘り割りを見ても
折角の 川 の流れを もっと有効に 生かせたのではないか!?
との疑問も沸きます。
東側からの攻撃に、特に苦戦しそうです。。。
対する 広島城 は
やや攻撃に弱い一角があるとは思いますが…
そこを重点的に守れば、秀吉が得意とした 籠城戦にも
良く耐えるだけの、敷地を持っているほか
海に逃げる・海から攻撃するなど 攻守とも
( 特に攻撃側は… )
あらゆる場面を想定して、相当の人数を投入して
戦わなくてはならなくなります。
岡山 ・ 広島 どちらも、秀吉の指図による 縄張りですが
大名としての 格 を強く意識させるものです。
しかしながら…
川の中州に築城した 広島の城 は 洪水などで
度々、被害に遭っており…
もっと小振りなもので良かったなぁ… と
ぼやいているようではありますが…
修理費を重ねさせておいて ある程度、勢力を削がせるのも
それに携わる人夫が住まうのさえ、秀吉 は計算済みでしょう。
広島の父は 案外と この方なのかも知れません!?
こうして…
吉田の山城から
人・物・情報が集う 海沿いに…
今風にいうと ミニ版首都移転 のような感じでしょうねぇ
ここに 今に続く 広島 の発展の基礎が築かれることとなります。
( なんか ヒストリア 渡邊さん風だね~ )
私は ゴダイゴ の ポートピア という
神戸で博覧会が行われた時の テーマ曲のなかで
時は過ぎ 人は移り 時代は変わる それでも街は生きる ♪
…というフレーズが好きなんですけど
大阪 ・ 岡山 ・ 広島 いずれの街も
基礎を築いた方々の 夢を継ぐかのように
今も、発展を続けていますから
草場の影から見て 当時の苦心を話しのタネに
大いに盛り上がっているのではないでしょうか。
地元の方々も それを誇りに感じる方が多いのでしょう。
これら各地を歩いていても… 徳川何々公 ナントカの地は無くとも
秀吉公ナントカの地 宇喜多 毛利家なんとか…は
そこ、ここに見る事ができます。
話は戻りますが…
現在の姿に近くなった後の
岡山城の不利は 歴代藩主も意識していたようで
池田家の統治する時代になって…
池田 綱正 が1686(貞亨3)年
( 生類憐れ令の頃デス! ) から
1700(元禄13)年までの 14年をかけて整備したものです。
すでに…江戸の太平の時代に入ってはいましたが…
この庭園に張り巡らせた水路と共に
若干なりとも その不利を補う
曲輪の役割を 担わせていると言われおり
地図を見ると なるほどなぁ~ と思わせるものです。
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