2009年10月13日火曜日

播磨での攻防を経て



   毛利 元就 の不幸は…




   長男 隆元 の早世であったように思います。






   これは 毛利 家に限らず 戦国大名家にとって…




   世襲は、存続のかかる難事であり続けました。






   元就 の死後…






   孫にあたる 輝元 の率いる 本家 を




   叔父の 吉川 元春 ・ 小早川 隆景 の両川が




   支える体制となりました。






   全盛期には…




   北九州から 中国地方 全域まで




   そして、ついには 現在の 兵庫県 姫路市 付近にまで




   覇を唱えた、毛利 でしたが…







   そこで、猛反撃に遭うようになり




   以降、東進することはありませんでした。






   当時の毛利氏は 相手側である 織田 氏 にとっても




   大きな 脅威になりつつあり、




   よく知られているように、中国攻略の 大将 は




   当時、出世頭であった 羽柴 秀吉 が担当しています。





   
   1579年10月



   
   岡山城主 宇喜多 直家 が




   織田 方に 寝返ります。




   より前線に近い 岡山 にとって




   もはや、時代の趨勢は 織田 にあり… と




   考えての行動だったのでしょう。



  
   毛利 氏にとっては 大きな痛手 となります。







   写真は 安土城跡 です。







0 件のコメント: