2009年8月6日木曜日

橋の表情 ~ あの日の御幸橋 ~



   現在、21時00分




   昭和20(1945)年8月6日の この時間


   市内中心部は、まだ燃えさかっています。


   

   原爆の爆発地点から半径500メートルにいた人は 即死


   おそらく 何もわからないまま 全員が死亡。




   そこから 半径1㎞地点までで 10人中1人の方が


   生き残りました。




   それ以上の地点から、急に生存者が増えてきます。




   我に帰った人達は とりあえず、自分の体を確かめます。




   歩ける人は 火勢を避けるようにしながら


   同僚なり、知人なり、身内なり を探しました。




   建物の下敷きになり 動けない人を見ながら


   追ってくる火の手に どうすることもできず


   立ち去った人には 大きな心の傷を残します。




   街中が燃えています。 今の熱中症どころではないでしょう。




   人々は とどまることのない 喉の渇きを覚えながら


   水を探します。




   通常の爆弾以上の悲劇が ここに起こります。




   なおも、身内を捜し中心部を 歩く人には


   命の源 であるはずの雨が 狭い範囲に降ります。


   体の火照りを冷やしたことでしょうし 体一杯浴びながら


   希望を感じた人もあったことでしょう…




   人々の悲鳴が 一日中 市内に響き渡ったといいます。




   おかぁちゃん 熱いよぅ… あちこちから聞こえるのに


   助けようと 思っても もう私自身に


   力が無かった 逃げるしかないんですよ…




   以前 語り部の方から 聴いたことがあります。




   水都 広島



   
   橋の両岸で 被害が大きく違ったことで 知られるのが


   御幸橋 被爆当日で唯一とも言われる 有名な写真は


   この 中心部(西)岸の方で撮影されています。



   
   暑さのあまり 川に入り 力尽きた人も相当数。




   この橋を自力で渡れた人には わずかに未来が見えます。


   怪我をしている人も 


   ここから 似島へ向かう、救護船が出されました。





   戦後 大量の人骨が 似島に無造作に埋められていたことが


   証言により はっきりしたため 発掘が行われています。





   もう少しで お盆。


   古くからある 我が家の墓に 墓参り。


   その時 人の墓を見ると、昭和20年から 21年にかけて


   無くなっている人が多いのです。




   9月、10月に亡くなっている方の


   苦しみは 相当のものだったのでしょう。




   もしも この文章を見て 思うところがあれば


   家族や親戚、知人で そのような経験をされた方を


   訪ねてみてください…




   学生さんならば ぜひとも…




   そのようなことができる時間は


   もう そんなに長くは残っていないのです。




   残念ですが それが現実なのです。


   

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