明治初年 以降・・・
たった 一度だけですが 東京以外の場所で開かれた国会があります。
さて・・・
その場所とは 一体 どこでなのしょう!?
クイズにでもなりそうな、この話・・・
実は 広島 です。
この事は
案外・・・ 広島の方でも、ご存知無い方が多いのではないでしょうか?
あぁ、そういえば! と
広島城内に残る、明治天皇の御座所の礎石を、
思い浮かべる方も いらっしゃるでしょう!?
広島で行われたのは
第7回帝国議会
1894(明治27)年10月18日に招集、4日間の会期で開かれ
8月1日に開戦した、日清戦争関連の予算について審議されました。
日清戦争の大本営は 兵站基地でもある広島に置かれたこともあって
9月15日には、明治天皇が東京から広島に移動
翌、明治28年4月 戦争の終結までの間、広島で陣頭指揮にあたりました。
この7ヶ月間というのは・・・
明治以降 現在に至るまで 一時的とはいえ 日本の首都機能が、
東京から離れていた、唯一の例として知られています。
では・・・
なぜ、今 あまり語られる事が無いのでしょうか!?
それは、この戦争以降・・・
大陸に向け 宇品(広島)港から、多くの 帰らざる将兵を送り出すこととなり
やがて、原子爆弾の投下という 最悪の結末へと向かう出発点になったからでしょう。
もう一つは・・・
原爆の投下と共に、戦前の広島について詳しく語れる方も
失なってしまったからでは無いかと思います。
話は変わって・・・
では 帝国議会が開かれた
国会の議事堂とは、いったいどこなのでしょうか!?
その建物は 元の 西練兵場 に仮設され、
当時の写真も残っているのですが 練兵場といえば、いわば 広いグランドのこと。
その写真を眺めて見ても 広島臨時仮議事堂 以外には、目立つ建物もなく、
気にはなっても、長く その場所を特定することが出来ませんでした。
しかし、現在は
簡素ながら その場所に 記念碑が建てられているんですね。
今回 広島市中区基町・・・
広島市水道局庁舎の南隣
中電基町ビルに、その碑を見つけ 写真に収めてきました。
塗装の痛みが目立つ、その碑の前に立ってみると
今は、気にもされなければ とくに 顧みられることも無い歴史なのだなぁ
・・・と、感じさせられます。
しかしながら、この歴史には・・・ もうひとつの視点があります。
私が、この事について、最近になって気になったのが・・・
東日本大震災以降、検討課題として浮上してきた
災害時、臨時に首都機能を移転させる・・・という件に関して、
災害と戦争の違いはあれ、
一時移転が 実際に行われた歴史があるということでしょう。
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